城が燃えている
街が燃えていた。いや燃えていたのは街では無い。
漆黒の闇の中、街の中心にある城が燃えていた。
それは栄華を誇った一人の老人の悲しみの炎なのかもしれない、彼はそう思った。
その人は卑賤の身から起し人身の地位を極み得た稀代の英雄だ。
しかしその英雄も今は無い。
その思いを形にした城だけがあった。それが燃えている。
彼にとってその城は全てだった。
生まれた時からそこを出たことは無かった。
その老人の一粒種として生まれた彼は城から出ることを許されなかったのだ。
しかしそれに関して不自由も感じたことは一度も無かった。
城の中では全てが自由だったし、あらゆるものが手に入った。それほど巨大な城だった。しかし自分がまだ知らない場所があるのも分かっていた。
結局は自分は父であるあの老人の手のひらから出ることができなかったのだろう、そう感じていた。
孫悟空がお釈迦様の手のひらから飛び出ることができなかったように。
彼がまだ幼い時、城の外の世界では戦が常であった。
しかし城の主である老人の力によって月日が経つにつれその数は少なくなっていった。それでも時折大きな戦は起きた。
終わるたびに老人の力は大きくなり、遂にその力により世の中はやっと静まった。
老人は覇権を得たのだ。そして英雄となり位人臣を極めた。
しかしながら老人が世を去ってから天下を二分する大戦(おおいくさ)が起こった。
その結果、覇権はこの城から移ってしまった。
大きな変化が起こったが、その変化は幸か不幸かそれは城の中までは及ばなかった。
この城は以前と同じく威厳を保っていた。
それを新しい世の主であるあの古老がいつもまでそれも見逃すはずはなかった。
そして遂にこの巨城を標的とした戦が行われた。
強大な城であるため、先の大戦(おおいくさ)で敗れた者たちも集まってきた。
世の中も新しい主の元で盤石では無かったはずだ。
勝機はあったはずだった。
しかし戦いに関しては歴戦の兵だったあの古老にかなうはずもなかった。
母親とともに戦ったが敵わなかった。
母は城とともに運命を共にした。
自分も共にと申し出たが聞き入れられなかった。
最後の時、母は言った。
「思い返せば私の母もまた燃え盛る城と運命を共にしたのです。まだ幼かった私はあのお方に負ぶわれて城を逃れました。しかし結局は同じ定めだったのでしょう。
しかし、あなたは生きるのです。そしていつか当家の復活を願う機運が高まった時、あの瓢箪の馬印を使って兵を挙げなさい。さすれば時勢は貴方の味方になるはずです。そして再び戻って来ることができます。母はそれを願って行きます。」
今は付き添っているこの男の他に供は無い。
この男の言葉を信じて遠く南の地へ行くのだ。
彼は炎を見ながらそう思っていた。
「殿下、そろそろお支度を。」
「うむ、分かった。」
二人は静かにその場を去って行った。
****************************************
長い戦乱が続いた戦国時代。
織田信長の後を継いだ豊臣秀吉は遂に天下統一を成し遂げた。
しかし長い間子宝に恵まれなかった秀吉の豊臣体制は盤石では無く、その死後に顕在化した豊臣方と徳川方の対立は石田三成と徳川家康との戦いという一種の代理戦争に発展した。
そして1600年関ヶ原の戦いが起こった。
この戦いを制したのは家康であった。
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は1603年江戸幕府を開府した。これにより名実ともに豊臣の時代は終わり徳川の時代となったのである。
しかし豊臣家は大阪城とともに健在であった。
それを家康が見過ごすはずはなかった。
豊臣家に無理難題を押し付け揺さぶりをかけた。
その結果1614年、大坂冬の陣。そして翌1615年の大坂夏の陣が起こった。
関ヶ原の敗者たちが大阪城に入城したが時勢はすでに定まっていた。
徳川の大軍勢の前に大阪城は落城。そして秀吉の一子である豊臣秀頼とその母淀殿は共に自刃し豊臣家は滅亡した。
しかしながら、一説によると真田幸村によって秀頼は薩摩へ逃げ延びたとされる。
1637年に島原・天草地方で起こった島原の乱で、一揆軍を率いた天草四郎は大将の馬印に瓢箪を使った。これにより実は四郎は秀頼の子供でありそれを補佐した芦塚中左衛門は幸村の子大輔であったというまことしやかな噂が飛び交った。しかし真偽は定かではない。
漆黒の闇の中、街の中心にある城が燃えていた。
それは栄華を誇った一人の老人の悲しみの炎なのかもしれない、彼はそう思った。
その人は卑賤の身から起し人身の地位を極み得た稀代の英雄だ。
しかしその英雄も今は無い。
その思いを形にした城だけがあった。それが燃えている。
彼にとってその城は全てだった。
生まれた時からそこを出たことは無かった。
その老人の一粒種として生まれた彼は城から出ることを許されなかったのだ。
しかしそれに関して不自由も感じたことは一度も無かった。
城の中では全てが自由だったし、あらゆるものが手に入った。それほど巨大な城だった。しかし自分がまだ知らない場所があるのも分かっていた。
結局は自分は父であるあの老人の手のひらから出ることができなかったのだろう、そう感じていた。
孫悟空がお釈迦様の手のひらから飛び出ることができなかったように。
彼がまだ幼い時、城の外の世界では戦が常であった。
しかし城の主である老人の力によって月日が経つにつれその数は少なくなっていった。それでも時折大きな戦は起きた。
終わるたびに老人の力は大きくなり、遂にその力により世の中はやっと静まった。
老人は覇権を得たのだ。そして英雄となり位人臣を極めた。
しかしながら老人が世を去ってから天下を二分する大戦(おおいくさ)が起こった。
その結果、覇権はこの城から移ってしまった。
大きな変化が起こったが、その変化は幸か不幸かそれは城の中までは及ばなかった。
この城は以前と同じく威厳を保っていた。
それを新しい世の主であるあの古老がいつもまでそれも見逃すはずはなかった。
そして遂にこの巨城を標的とした戦が行われた。
強大な城であるため、先の大戦(おおいくさ)で敗れた者たちも集まってきた。
世の中も新しい主の元で盤石では無かったはずだ。
勝機はあったはずだった。
しかし戦いに関しては歴戦の兵だったあの古老にかなうはずもなかった。
母親とともに戦ったが敵わなかった。
母は城とともに運命を共にした。
自分も共にと申し出たが聞き入れられなかった。
最後の時、母は言った。
「思い返せば私の母もまた燃え盛る城と運命を共にしたのです。まだ幼かった私はあのお方に負ぶわれて城を逃れました。しかし結局は同じ定めだったのでしょう。
しかし、あなたは生きるのです。そしていつか当家の復活を願う機運が高まった時、あの瓢箪の馬印を使って兵を挙げなさい。さすれば時勢は貴方の味方になるはずです。そして再び戻って来ることができます。母はそれを願って行きます。」
今は付き添っているこの男の他に供は無い。
この男の言葉を信じて遠く南の地へ行くのだ。
彼は炎を見ながらそう思っていた。
「殿下、そろそろお支度を。」
「うむ、分かった。」
二人は静かにその場を去って行った。
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長い戦乱が続いた戦国時代。
織田信長の後を継いだ豊臣秀吉は遂に天下統一を成し遂げた。
しかし長い間子宝に恵まれなかった秀吉の豊臣体制は盤石では無く、その死後に顕在化した豊臣方と徳川方の対立は石田三成と徳川家康との戦いという一種の代理戦争に発展した。
そして1600年関ヶ原の戦いが起こった。
この戦いを制したのは家康であった。
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は1603年江戸幕府を開府した。これにより名実ともに豊臣の時代は終わり徳川の時代となったのである。
しかし豊臣家は大阪城とともに健在であった。
それを家康が見過ごすはずはなかった。
豊臣家に無理難題を押し付け揺さぶりをかけた。
その結果1614年、大坂冬の陣。そして翌1615年の大坂夏の陣が起こった。
関ヶ原の敗者たちが大阪城に入城したが時勢はすでに定まっていた。
徳川の大軍勢の前に大阪城は落城。そして秀吉の一子である豊臣秀頼とその母淀殿は共に自刃し豊臣家は滅亡した。
しかしながら、一説によると真田幸村によって秀頼は薩摩へ逃げ延びたとされる。
1637年に島原・天草地方で起こった島原の乱で、一揆軍を率いた天草四郎は大将の馬印に瓢箪を使った。これにより実は四郎は秀頼の子供でありそれを補佐した芦塚中左衛門は幸村の子大輔であったというまことしやかな噂が飛び交った。しかし真偽は定かではない。
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